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2009-04-27 [現代思想・入門]

ハイデガー存在論への展開
「存在」そのものへの問い
 『存在と時間』
  第二章 存在問題の開発における二重の課題 考究の方法および構図
第五節 存在一般の意味の解釈のための地平を打開する作業としての、現存在の存在論的分析論
 存在問題で第一次的に問いかけられるもの、すなわち現存在に、
 どのようにして近づき、了解的に解釈するにどうしてそれに照準をつけたらよいのか。

 現存在が己の存在を了解し、そしていつもすでに、己の存在が解釈されている、ということは、
 現存在自身の固有の存在に備わっていることである。 が、だからといって、
 現存在の存在了解が自己の存在構成への主題的に存在論的な省察から発源したものである
 かのように速断してよいとはならない。
 現存在は現存在自身にとって、存在的には「もっとも身近か」であり、
 存在論的にはもっとも遠く、しかも前=存在論的にはよそごとではない。

 現存在についての諸科学の解釈が、実存的にはおそらく根源的なものであったとしても、
 それらが実存論的見地からみても同様の根源性に徹して行われたかどうかは疑問である。 

 存在への問いにおける第一の要件は、やはり現存在の分析論なのである。
 現存在へ近づきこれを解釈する様式は、
 その存在者を、それがさしあたり、そしてたいてい存在しているありさまで、
 すなわちそれの平均的な日常性において、示すことが大切である。

 現存在の分析は、とりあえずこの存在者の存在を浮き彫りにするだけで、
 その存在の意味を解釈するにはいたらない。
 もっとも根源的な存在解釈のための地平の打開を準備することをめざしている。
 やがてこの地平が得られたあかつきには、準備的な現存在分析論も、
 いっそう高次の、本格的に存在論的な地盤の上で、改めて反復される必要がある。

 我々が現存在となづける存在者の存在の意味として拳示されるものは、時間性である。
 この指摘は、
 現存在の諸構造を時間性の諸様態として解釈することによって、吟味される必要がある。
 現存在を時間性として解釈することは、
 存在一般の意味への問いの答えを獲得するための地盤になる。

 存在の時節的規定性
  存在とそれの諸性格および諸様態が時間にもとづいて根源的に意味づけられているその規定性

 存在そのものを解釈する基礎存在論的課題は、
 そのうちに存在の時節性の解明という仕事を含むことになる。

 従来の存在論の特有な存在様相や、その存在論の問いと発見と挫折の歴史的運命などを、
 現存在にぞくする必然として見届ける。

第六節 存在論の歴史の解体の課題
 あらゆる研究は、現存在の存在的可能性のひとつである。
 現存在の存在は、自らの意味を時間性のうちに見いだす。
 時間性は同時に、現存在自身の時間的存在様式としての歴史性を可能にする条件である。

 存在の意味への問いは、
 あらかじめ現存在をそれの時間性と歴史性において究明する問いとして、
 自ずから自己を歴史認識的な問いとして理解する。

 伝統が、現存在から、自ら問い自ら選択するという自主的イニシアティヴを奪ってしまう。
 伝統は、在来のものごとを当り前のものとして人びとの踏襲にまかせ、根源的な
 「源泉」(かつて多少とも真正な仕方でそこから伝統的な概念が汲みあげられてきた)への通路を
 ふさいでしまう。

 存在問題の歴史に透明な見通しをつけるという課題
 存在問題を手びきとして古代的存在論の伝承的形態を解体し、かつて存在の最初の―そして
 それ以来主導的となった―諸規定がそこで得られた根源的諸経験へひきもどす解体作業

 一般に存在論の歴史の経過中に、
 存在の解釈がどの程度まで、時間の現象と主題的に考え合わされたか。
 このために必要な時節性の問題圏が原理的に取りだされたか、取りだされえたか。

 カント 
  探究の途上でいくらかの道程を時節性の次元の方向へ進んだ最初にしてただひとりの人。
  主観の主観性をあらかじめ存在論的に分析する分析論を欠いていた。
  時間という現象を主観のなかへ取り入れたにもかかわらず、
  時間分析が、依然として伝承的な通俗的時間了解の線に沿っている。

 デカルト
  コギトの絶対的「確実知」を得ることによって
  この存在者の存在意味への問いを免除されたという見解に走った。

 ギリシア的な存在解釈
  理性的認識は、時節的構造を備えている。 しかし、
  時間の基礎存在論的機能を察知することも、理解することもなかった。

 存在論的伝承の解体の遂行は、存在問題を具体化する。

 存在への問いを呼びさまし、相互調節のきく対決の領域を獲得しておかなくてはならない。

第七節 考究の現象学的方法


 感想: 第四節で (途中のまま)
     第五節で 現存在を時間性として解釈するぞ といい、
     第六節で 昔は存在問題を閑却したんだぞ といい。
     第七節で 現象の概念、ロゴスの概念、現象学の予備概念(次回予定)

     訳者の凡例に「著者の確認を経て」とある。
     後記を読む。
     「昭和37年の夏にハイデッガーをフライブルク郊外の自宅に訪問して」
     「この物静かで謙虚な思想家が何時間にもわたって実に厳粛な態度で
     30年前の自著の文字を再検討してくれた」                  とある。

     「「ハイデッガーの『存在と時間』は、まだドイツ語にさえ翻訳されていません」
     と言ったドイツ人が居た。」
     ともあった。





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