2009-05-01 [現代思想・入門]
ハイデガー存在論への展開
「存在」そのものへの問い
『存在と時間』
第二章 現存在の根本的構成としての世界=内=存在一般
第一三節 ひとつのもとづけられた様態についてなされる、内=存在の例示 世界認識
認識(客体的存在者に対する考察的規定という態度)ということの現象的実状
世界=内=存在は、配慮として、それが配慮する世界に気をとられている。
認識は、世界との配慮的交渉の欠如的変様が起こることにより可能になる。
配慮はその際、「……のもとにただ立ちどまっている」という内=存在の様態である。
現存在は、それの原義的な存在様相からいって、
いつもすでに発見されている世界において出会ってくる存在者のもとに、
いつもすでに「立ち出ている」のである。そして、
それが認識しようとする存在者のもとに規定という態度で滞在することも、
内面圏から超え出てゆくことではなく、
このように「外に出て」対象のもとに立つことにおいても、現存在は「内に」とどまっている。
認識する者も、どこまでも世界=内=存在としての現存在自身に他ならない。
認識は、世界=内=存在のうちにもとづけられた、現存在の一様態である。
「存在」そのものへの問い
『存在と時間』
第二章 現存在の根本的構成としての世界=内=存在一般
第一三節 ひとつのもとづけられた様態についてなされる、内=存在の例示 世界認識
認識(客体的存在者に対する考察的規定という態度)ということの現象的実状
世界=内=存在は、配慮として、それが配慮する世界に気をとられている。
認識は、世界との配慮的交渉の欠如的変様が起こることにより可能になる。
配慮はその際、「……のもとにただ立ちどまっている」という内=存在の様態である。
現存在は、それの原義的な存在様相からいって、
いつもすでに発見されている世界において出会ってくる存在者のもとに、
いつもすでに「立ち出ている」のである。そして、
それが認識しようとする存在者のもとに規定という態度で滞在することも、
内面圏から超え出てゆくことではなく、
このように「外に出て」対象のもとに立つことにおいても、現存在は「内に」とどまっている。
認識する者も、どこまでも世界=内=存在としての現存在自身に他ならない。
認識は、世界=内=存在のうちにもとづけられた、現存在の一様態である。
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