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2009-03-28 [現代思想・入門]

3 形而上学の批判と現代思想の起源
ニーチェと神の死   (再)
 たとえばドゥルーズは次のように言う。
 「形而上学は・・・われわれが本質へと導かれるのは、ただ『誰が』という問いによってだけ
 である。・・・」

 解釈:「善とは何か?」という問いは、善の実体(真理)の探究であり、真理とは独りまずあるもの。
    誰が、どのように問おうとも答えは変わらない。
     「美とは何か?」という問いを一緒に立てても、「悪とは何か?」という問いを一緒に立てて
    も、それぞれの答えは独立しており互いに影響を及ぼさない。
     「誰が善を問うているか?」の答えと「誰が美を問うているか?」の答えの差異(?)や、
    「誰が善を問うているか?」の答えと「誰が悪を問うているか?」の答えの差異(?)が
    善の本質へ導く。
                               ―この解釈は、誤りです。  09-04-08 追記


 疑問:「誰が?」という問いは形而上学の外にあるのか?
     善に本質があると考えるのは形而上学的ではないのか?
     「誰が問うているか?」によって、実は実体とされているものが違っているのか?
     「実体とされている」という時点で、それはイデアではない? 
     思想を語るうえでの「差異」という言葉の使い方。


 感想: ・・・うう・・・
     これも7年ほど前に入手した、ニーチェについての本。 読んでまた考えよう。
     本当はニーチェの著作を読むべきとは思う。けど、だんだん遠くへ行ってしまいそうで。

     どこまで読み進めていたのか覚えていない。
     唯一覚えているのは、ルサンチマンという考え方。 衝撃と感嘆と。
     
これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

  • 作者: 永井 均
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1998/05
  • メディア: 新書








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