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2009-04-05 [現代思想・入門]

3 形而上学の批判と現代思想の起源
ニーチェと神の死

 参考:『ニーチェと哲学』   ジル・ドゥルーズ 著   足立和浩 訳
     第一章 悲劇的なもの
     第二章 能動と反動
     第三章 批判 
     第四章 怨恨からやましい良心へ
     第五章 超人。弁証法との対立
     結論
     原註
     訳註
     ドゥルーズのニーチェ論
     訳者あとがき

 感想:訳者による「ドゥルーズのニーチェ論」は、「ニーチェを読解するうえでのドゥルーズの基本的な
    立場、態度、方法などを従来の研究者たちのそれらと比較しつつ、まず簡単に」六つに規定し
    ている。これが、難しい変数をいくつも減らしてくれた。(ドゥルーズの方法には、「それは、どう
    なの?」とツッコミたくなるものもあった。)
     訳註も、ニーチェの著作からの引用が多数あり、とても手助けとなるものだった。

     前回は、「『誰が』という問い」に、なぜか、ひっかかってしまい、本書を手にしたのだが、
    今回、ひっかかってしまった言葉は、「悲劇的である」(頻出)。

     悲劇とはなにか、ディオニュソスとは誰か・なにか、アリアドネとは誰か、
     なぜ、ニーチェは、そんなにもディオニュソスをもちあげるのか、
     「原初的統一」や「本原的存在」という言葉が、なぜ、必要だったのか、また、
     ニーチェは、それらの言葉をどう定義し、それらの存在をどのように考えていたのか。

     同じ言葉の意味するものが、出てくるたびに変化しているようで、ニーチェの思想を時系列で
    たどることになる。ドゥルーズには、ニーチェの「矛盾」はないのだ。

     ディオニュソスは、アポロンと対立し、ソクラテスと対立し、そして、キリスト教と対立する。
    ドゥルーズによれば、「真の対立が登場してくる」。

     ディオニュソスとキリストとの対立は、「生の肯定と生の否定として展開されていく」。

     「多様な肯定、あるいは多元論的な肯定、これが悲劇的なものの本質である。」

     「『生存は意味をもつか?』 …… この問いは『正義とは何か』ということを意味している。
    そして、ニーチェが、自分の全作品はこの問いを正しく理解するための努力であると言っても、
    それはあながち誇張ではない。」

     この問いの悪しき理解の仕方は、生存というものを何らかの過失や罪責、義認さるべき
    何らかの不正として定立すること。



     「え?   そんな・・・?」
     おもわず、拍子抜けて―初心者が、無知も傲慢も恥もさらすのを承知で―しまった。

     わたしは、自分は原罪を背負って生まれてきたのかと、自分に問うたことはない。
     原罪という言葉は知っている。しかし、それは、わたしのものであったことはない。

     哲学(あるいはヨーロッパ)は、そんなにも重く、逃れがたい(あるいは、そこから逃れる
    ことなど夢想にもしえないような)ものの中にあったのか―今もあるのか。

     生をかたむけて戦った(わたしにはそう思える)、ニーチェの、その切実さを、わたしは、
    自分のものとして引き寄せることはできない。 これは、とても、寂しい思いだ。

     わたしが、「原罪(存在の有無は問うていない)の自覚がない」ために、あるいは、現状
    認識が甘いために、自称悲観主義者のくせに、楽観しすぎているからなのか?

     「悲劇的である」の意味を求めて、『ニーチェと哲学』を読んでみた。
    ニーチェの著作は、『悲劇の誕生』をはじめ、どれもみな興味深く、読んでみたいと思った。

     しかし、繰り返しになるが、わたしがこの本から読み取るニーチェの思想・哲学よりも、
    一番胸にせまったのは、なにより、「ねばならなかった、ニーチェの、その切実さ」なのだ。





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