2009-04-06 [現代思想・入門]
3 形而上学の批判と現代思想の起源
ニーチェと神の死
落書き:『哲学〇イ〇○ト』
「下手な考え休むに似たり」という。
本当にそうだろうか。
ただ休んでいるだけでは、やせられない。
では、ただ考えているだけでは?
「いまの世の中、将来を考えると、身の細るような思いがするとか?」
それもあるかもしれない。
しかし、これから紹介するのは、ひたすら考える=哲学のことだ。
あの、人間の言葉をはなす、猫型〇〇〇〇(ロボットではない)も唄っているように、
哲学するのだ。
「哲学って、何をどう考えたらいいの?」という人には、入門書を読むという手もある。
ここで、ちょっと気をつけて欲しいのは、
哲学の入門書は、他の入門書(たとえば『ルアーフィッシング入門』)と異なることだ。
まず、カラー口絵がない。 挿絵も少ない。 が、なにより、
「ハウツー」が書かれていないのだ。 (どうやって入門すればいい?)
加えていえば、「やさしい」とか「わかりやすい」とかは、主観であって客観ではない。
さて、一冊の本を手に取ってみよう。
たとえば、ニーチェについての入門書だ。
日本では、「ニーチェか、〇ル〇ルか」とお茶の間に流れ、知っている人も多いと思う。
「なんで、日本語が書いてあるのに、意味がわからないんだろう?」と思っても、
繰り返し、何度も読んでみる。 いまの時代なら、ネットという強い味方もついている。
そのうち、霧の彼方から、おぼろげに見えてくる(気がする)ときがくる。
「誰が」、「誰が」、「力への意志」、「力への意志」・・・憑かれたようにつぶやき、
やがて・・・寝食を忘れるのだ。
あ、また操作を誤ってしまった。
書いたもの、全部ぱーだ。
だから、メモ帳に書いてからコピペした方がと何度・・・。
え、窓の外が明るい・・・
なにか食べていても、知らないうちに、
日本の「道徳の系譜」は、明らかになっているのかなあ。
「認識と生との対立」というのなら、
「生きた者」だった人が、善悪を知るものとなって、楽園から追い出され、
道徳的起源をもつ善悪(生の否定)と対立し、
生の肯定(多様な肯定、あるいは多元論的な肯定)を手に入れて、
また、楽園(もとの楽園ではありえない)に住む。 と考えると、おもしろいなあ。
ということになり、食べかけたまま、手は本へ。
何をしていても、「力への意志」という言葉がつきまとう。
「何を書くか」ということは、「それを、そのように書く」わたしを顕にするとともに、
「あれを、あのように書かない」わたしも顕にする。
「書く」が「書かねばならない」のだったなら、もっとどんよりだ。
何を書いていても、「お、いやらしさが透けて見えてる」と自分にツッコミを入れてしまう。
それでも書くのは、これも「力への意志」か。
そして、「たんに」書かれたブログ「があるのではな」いのなら、
軽い気持ちで、ブログなど読めない・・・?
ものを食べるのも、息をするのも、「力への意志」なのか。
とするならば、「力への意志」とは、「いのち」そのものではないか。
生き物すべてにある、「生きる」という力。
ヒトはまだ、「いのち」のない物にこれを与えることはできない。
・・・あ、お昼ご飯、食べ損ねてた・・・
そして、気がつくと、ジーンズのウエストがゆるくなっているのである。
さあ、あなたも。
これは、事実をふくんだフィクションです。
ニーチェと神の死
落書き:『哲学〇イ〇○ト』
「下手な考え休むに似たり」という。
本当にそうだろうか。
ただ休んでいるだけでは、やせられない。
では、ただ考えているだけでは?
「いまの世の中、将来を考えると、身の細るような思いがするとか?」
それもあるかもしれない。
しかし、これから紹介するのは、ひたすら考える=哲学のことだ。
あの、人間の言葉をはなす、猫型〇〇〇〇(ロボットではない)も唄っているように、
哲学するのだ。
「哲学って、何をどう考えたらいいの?」という人には、入門書を読むという手もある。
ここで、ちょっと気をつけて欲しいのは、
哲学の入門書は、他の入門書(たとえば『ルアーフィッシング入門』)と異なることだ。
まず、カラー口絵がない。 挿絵も少ない。 が、なにより、
「ハウツー」が書かれていないのだ。 (どうやって入門すればいい?)
加えていえば、「やさしい」とか「わかりやすい」とかは、主観であって客観ではない。
さて、一冊の本を手に取ってみよう。
たとえば、ニーチェについての入門書だ。
日本では、「ニーチェか、〇ル〇ルか」とお茶の間に流れ、知っている人も多いと思う。
「なんで、日本語が書いてあるのに、意味がわからないんだろう?」と思っても、
繰り返し、何度も読んでみる。 いまの時代なら、ネットという強い味方もついている。
そのうち、霧の彼方から、おぼろげに見えてくる(気がする)ときがくる。
「誰が」、「誰が」、「力への意志」、「力への意志」・・・憑かれたようにつぶやき、
やがて・・・寝食を忘れるのだ。
あ、また操作を誤ってしまった。
書いたもの、全部ぱーだ。
だから、メモ帳に書いてからコピペした方がと何度・・・。
え、窓の外が明るい・・・
なにか食べていても、知らないうちに、
日本の「道徳の系譜」は、明らかになっているのかなあ。
「認識と生との対立」というのなら、
「生きた者」だった人が、善悪を知るものとなって、楽園から追い出され、
道徳的起源をもつ善悪(生の否定)と対立し、
生の肯定(多様な肯定、あるいは多元論的な肯定)を手に入れて、
また、楽園(もとの楽園ではありえない)に住む。 と考えると、おもしろいなあ。
ということになり、食べかけたまま、手は本へ。
何をしていても、「力への意志」という言葉がつきまとう。
「何を書くか」ということは、「それを、そのように書く」わたしを顕にするとともに、
「あれを、あのように書かない」わたしも顕にする。
「書く」が「書かねばならない」のだったなら、もっとどんよりだ。
何を書いていても、「お、いやらしさが透けて見えてる」と自分にツッコミを入れてしまう。
それでも書くのは、これも「力への意志」か。
そして、「たんに」書かれたブログ「があるのではな」いのなら、
軽い気持ちで、ブログなど読めない・・・?
ものを食べるのも、息をするのも、「力への意志」なのか。
とするならば、「力への意志」とは、「いのち」そのものではないか。
生き物すべてにある、「生きる」という力。
ヒトはまだ、「いのち」のない物にこれを与えることはできない。
・・・あ、お昼ご飯、食べ損ねてた・・・
そして、気がつくと、ジーンズのウエストがゆるくなっているのである。
さあ、あなたも。
これは、事実をふくんだフィクションです。
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