2009-04-07 [現代思想・入門]
3 形而上学の批判と現代思想の起源
ソシュールから記号論へ
(→PART 3 記号論という新しい波 があるので簡略)
言語を「差異の体系」として捉える。
言葉の意味は別の言葉との(たとえばイヌならヤマイヌとの)差異によって決まる。
拡大解釈すれば、人間というものも、時代的な、人間と他のものを区別する体系のなかに
位置づけられてしかありえないのだ。
分析学(言語の、文化の、記号の)
言葉をその表現する内容(ロゴス)と同値に見なす発想を解体するような方法
感想:ソシュールの言語学については、以前読んだことがある。 当時、
現代社会はどう分析できるのかに興味を持ち、本を読んだり、ネットで調べたりした。
しかし、あたりまえのように書かれていることが、なんだかよくわからない。
意味のわからない言葉は、辞書を引けばわか・・・らない。
現代思想というものを知れば、すらすらと、読めるようになるはず。 ・・・だった。
放り出したまま7年ほどが経ち、あらましを覚えているのは、二つ。
そういう考え方があるんだ! という衝撃とともに。
一つは、ニーチェのルサンチマン。 もう一つは、言葉は差異から。
(差異=違い くらいの意)
この本の1-1-1 はじめに 現代の思想シーンとデリダ を読んでから
なんとなく感じている、違和感。
言葉を用いずに、考えること。 言葉を用いずに、考えを伝えること。
ヒトは、哲学において、可能であるか。 ―否。 と、考えざるをえない、わたしには、
デリダ、大変だったんだろうな。 苦労したろうな。 (敬称略)
失礼ながら、これが、皮肉ではない、第一印象なのだ。
2009-04-05 で、ニーチェの切実さを、思想そのものより印象深い、と書くことと同じだ。
価値は、それを測った者の資質を問うている、ということでもある。 「誰が」と。
現代思想を、よそごととしてでなく、学べるだろうか?
プラトンや、アリストテレスや、歴史から始めれば?
「よそごととしてでなく学ぶ」必要は、ないのか?
学んでいくなかで、見えてくるものがあるのだろうか。
落書き:「イデア〇」
イデア界はある。
そこには、無数のイデアがあるのではない。
あるのは、真・善・美 の三つのイデアである。
赤・青・緑 この三つの色の組み合わせで、無数の色がつくられるように、
真・善・美 この三つのイデアの組み合わせで、無数のイデアが可能なのだ。
「それなら―」と、きみは訊ねる。
「なぜ人は、イデア界があることを認識できないのか。」
それなら―
ぼくも訊ねよう。
「なぜ人は、死後の世界があることを認識できないのか」と。
イデア界は、そのように、「ある」のだ。
いまぼくたちのいる、この世界は、
完全なるイデア界の、不完全な影にすぎない。
「完全なる真、完全なる善、完全なる美」の世界。
イデア界は、それゆえ、「完全なるいのち」の世界だ。
考えてもみたまえ。
「完全なるいのち」の世界があるのだ。
「いのち」にいたる 門は・・・・・・
『現代思想・入門』を読み始めて二週間。
気がつくと、考えている。
気に留めなかった諸々のことが、ひっかかる。
知恵熱が出るかも。
2009-04-08 感想訂正
ソシュールから記号論へ
(→PART 3 記号論という新しい波 があるので簡略)
言語を「差異の体系」として捉える。
言葉の意味は別の言葉との(たとえばイヌならヤマイヌとの)差異によって決まる。
拡大解釈すれば、人間というものも、時代的な、人間と他のものを区別する体系のなかに
位置づけられてしかありえないのだ。
分析学(言語の、文化の、記号の)
言葉をその表現する内容(ロゴス)と同値に見なす発想を解体するような方法
感想:ソシュールの言語学については、以前読んだことがある。 当時、
現代社会はどう分析できるのかに興味を持ち、本を読んだり、ネットで調べたりした。
しかし、あたりまえのように書かれていることが、なんだかよくわからない。
意味のわからない言葉は、辞書を引けばわか・・・らない。
現代思想というものを知れば、すらすらと、読めるようになるはず。 ・・・だった。
放り出したまま7年ほどが経ち、あらましを覚えているのは、二つ。
そういう考え方があるんだ! という衝撃とともに。
一つは、ニーチェのルサンチマン。 もう一つは、言葉は差異から。
(差異=違い くらいの意)
この本の1-1-1 はじめに 現代の思想シーンとデリダ を読んでから
なんとなく感じている、違和感。
言葉を用いずに、考えること。 言葉を用いずに、考えを伝えること。
ヒトは、哲学において、可能であるか。 ―否。 と、考えざるをえない、わたしには、
デリダ、大変だったんだろうな。 苦労したろうな。 (敬称略)
失礼ながら、これが、皮肉ではない、第一印象なのだ。
2009-04-05 で、ニーチェの切実さを、思想そのものより印象深い、と書くことと同じだ。
価値は、それを測った者の資質を問うている、ということでもある。 「誰が」と。
現代思想を、よそごととしてでなく、学べるだろうか?
プラトンや、アリストテレスや、歴史から始めれば?
「よそごととしてでなく学ぶ」必要は、ないのか?
学んでいくなかで、見えてくるものがあるのだろうか。
落書き:「イデア〇」
イデア界はある。
そこには、無数のイデアがあるのではない。
あるのは、真・善・美 の三つのイデアである。
赤・青・緑 この三つの色の組み合わせで、無数の色がつくられるように、
真・善・美 この三つのイデアの組み合わせで、無数のイデアが可能なのだ。
「それなら―」と、きみは訊ねる。
「なぜ人は、イデア界があることを認識できないのか。」
それなら―
ぼくも訊ねよう。
「なぜ人は、死後の世界があることを認識できないのか」と。
イデア界は、そのように、「ある」のだ。
いまぼくたちのいる、この世界は、
完全なるイデア界の、不完全な影にすぎない。
「完全なる真、完全なる善、完全なる美」の世界。
イデア界は、それゆえ、「完全なるいのち」の世界だ。
考えてもみたまえ。
「完全なるいのち」の世界があるのだ。
「いのち」にいたる 門は・・・・・・
『現代思想・入門』を読み始めて二週間。
気がつくと、考えている。
気に留めなかった諸々のことが、ひっかかる。
知恵熱が出るかも。
2009-04-08 感想訂正
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