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2009-04-19 [現代思想・入門]

3 フッサールの現象学的還元という方法

 「現象学的還元」という概念の根本の意味
  「世界は客観的に存在する」という近代哲学の前提となる確信を、いったん取り払って
  考え直してみること。
  現象学的エポケー(=判断中止)や、「括弧入れ」とよばれているものも、こういった作業の
  ひとつのプロセスであり、まったく同じことを意味している。

 現象学的還元の方法
  自然主義的態度   世界はたった一つのものとして客観的に存在しているという確信

  超越論的主観、純粋意識
   人間の認識において、自然主義的な世界像の確信を遮断すると残る、主体の意識

  超越論的還元   純粋意識を取り出してゆく作業

 純粋意識   像や観念が次々に重ね合わされたり、継起したりしているだけの
          純粋な受像機としての意識(志向性は意識の特質である)

 人間の意識と世界
  人間の意識はいきなり世界のなかにいる自分を見いだすのではなく、
  知覚や像の連なりから意識が、それを経験というかたちで構成してゆくことを通じて、
  人間は世界というものを見いだすようになる。

 認識の問題
  人間が意識のなかで客観世界の像をどのように構成し確立してゆくか

 フッサール現象学の方法上の核心
  人間には世界のありのままは言いあてられないが、意識のありのままは言いあてられるはず


 感想:この項までを読んで (「フッサール現象学の誕生」という章が後にあるので)。

    「世界は客観的に存在する」の「客観的」は、神の視線なのか。
    物自体の世界=本質の世界 が存在するということか。
    「たとえ世界に人間がいなくても」という設定では、哲学に・・・ならないか。

    意識に像や観念が映るということは、被写体が「ある」ということでいいか。
    「世界が」というほどではない、なにかが「ある」。 その「ある」ものや「ある」ことが
    意識に映り、映ったものをつないだり、組み合わせたりすると世界が見えてくる。 と。
    
    思いうかぶのは、
    赤ちゃんが自分のまわりの世界を認識していく過程―発達心理学(?)だ。

    「世界が」というほどではない、なにかが「ある」のは、やはり、認識とその対象の関係で
    「ある」のではないか。 これは、存在を前提にしていないのか。 よくわからない。

    赤ちゃんがある程度成長すると、それまでの経験から、
    (客観的な)世界が存在すると「みなして」認識するようになるのではないか
    と考えられるのだが、

    人間一般の認識において、この「みなす」―実生活に支障がないからいいや―ということが
    どのような役割を果たしているのか、
    哲学と関係するのか(世界を見いだしてしまったつもりの後の認識というか)。

    人間は、この世界のすべてを知りつくすということは、おそらく、不可能であろうから、
    いつも、世界を見いだしているという現在進行形の状態なのだろうか。
    (でも、途中から、客観的世界の存在という前提を確信しないのかな?)

    「純粋意識」というのは、
    考えるための仮定なのか、それとも、実際に存在すると考えられたのか。

    よくわからないと記していないところも、まだ(?)、よくわからない。 
 
  
    
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