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2009-06-04 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      1章 中世のキリスト教哲学
  アウグスティヌス   人間が神の似像である
   「私は存在し、存在していることを知り、その存在と知を愛している」
   自己認識においては、認識する者と認識されるものとが分離していない(本性上合致が成立)
   ので、自分が存在することは絶対的に真なのである。
   「それゆえ、もし私が欺かれるとすれば、私は存在する。
   なぜなら、存在しない者が欺かれることはありえないのだから」
   こうしてアウグスティヌスは、自分が存在することが絶対的に真であることを確立した。
   この思索は、実存的な動機から発していて、デカルトとは異なっている。
   自己が絶対に疑いえない実在であることを確かめようとしているのである。
   デカルトは、「思惟する自己存在の絶対的真理性」を、根本的真理として立てようとした。
   方法的懐疑の思索は、認識論的な動機から発している。

  トマス・アクィナス   アリストテレス哲学を根本的に受容 理性と信仰の稀有なバランス
   「存在する」とはなにか
   アリストテレスは「存在」を四種に分析した (『形而上学』第6巻第2章)
    ①カテゴリーとしての存在   
    ②可能態・現実態としての存在
    ③真としての存在
    ④付帯性としての存在         が、これらを明確には統一的にまとめあげなかった。

   トマスは、アリストテレスの意図を信仰の光の下で明確化。
    「存在する」とは、自ら立つことで、実体である、ということにほかならない。
    カテゴリーとは、述語として語られる「存在」のさまざまな意味を言う。
    それらの中で、実体がもっともすぐれた意味での「存在」であり、
    その他のカテゴリー(性質、量、関係、時間、空間、能動、受動など)は、
    実体に依存して存在する(実体への内属性)にすぎない二次的な存在である。
    たとえば、次の文章で、述語はすべて存在をあらわしている。
    「紀元前399年(時間)にアテナイの法廷(場所)で、ソクラテス(実体)は、無神の者(性質)
    という罪状で、死刑の判決を受けた(受動性)」
    ソクラテス以外の述語はすべてソクラテスという実体に支えられ、収斂して成立している。    
    存在には、
    現実態(活動している)、可能態(現実化しうるが、しないかもしれない)という意味もあった。
    「現実態にある実体」=「現に活動している実体」が「存在する」。
    あらゆる有限な存在者は、いずれはかならず滅亡する。→ 滅亡可能な(可能態の)存在者

    アリストテレスの神の存在証明(『形而上学』第12巻)の骨子
     「存在することも、存在しないこともできる、可能的な存在者」は、「己のうちにいささかの
     可能性をも含まず、活動そのものであるがゆえに、必然的に存在する純粋現実態」 が
     なければ、本来存在として現れ出ることができない。
    トマスの「純粋現実態である存在そのものとしての神」という概念
     「存在そのものはすべてのものに対して現実態の位置にある。
     ものが現実性を有するのは、そのものが存在するかぎりにおいてのことであり、したがって、
     存在そのものはすべてのものにとってその現実性の根源であるからだ」
                                       (『神学大全』第1部第4問第1項)

   存在の類比



    
   
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