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2009-06-05 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      1章 中世のキリスト教哲学
  トマス・アクィナス
   存在の類比
   アリストテレス   「類比による一」
    存在にはいろいろな意味があり、それらのあいだにはていどの相違がある。
    実体と内属性とで、現実態と可能態とで、それぞれ、後者の存在のていどは希薄である。
    しかし、同じ「存在」という言葉を使っている以上、
    そこにはすべてに通じる統一的な意味がなければならない。 この一性。
   トマス   類比の中心的意味を「純粋現実態である存在そのものとしての神」におく
    実体も内属性も含めてすべての被造物は、
    この中心的意味を分有するていどに応じて「存在」である。 

   自然神学の道
   トマス   認識においてもアリストテレスにしたがう
    すべての認識は、外界についての感覚的経験からはじまる。
    認識とは、感覚を通してあらわれる事物の本質(可知的形相)を理性が把握すること。
    神についての認識も、自然的世界の存在者についての認識から始まらねばならない。
    あらゆる自然的存在者は、なんらかのていどで純粋現実態である存在そのものを現して
    いることにより、神認識の出発点になることができる。
   カントによる批判 (『純粋理性批判』)
    現象世界にのみ妥当する因果律を超越的世界にまで適用しているがゆえに誤謬である。
   「世界が神を現している」 目的論的な言い換え
    有限な存在者が存在の持続と善の実現をもとめて活動するとき、
    この活動は、自己自身を超え出て、存在の充溢であり善の根源である神をもとめ、
    それへ向かっているのである。


 感想: 「類比による一」という言葉を検索していたら、
     『ギリシャ哲学セミナー論集』に出会った。
     アリストテレスに入門するのはやめようと思った。 というのはおいといて。
     VolumeⅡ(2005)に、この本の著者による応答というのがある。

     以下、とりとめのないことを、とりとめのないままに。
     「加害行為は醜い」という感覚、カントの「理性の事実」、あるいは類する私的経験は、
     人は、みな、生まれながらに、美や善についての共通の感覚をもっている。
     ということを、素朴に想起させるのではないか。
     みなもっている=分有されている と考えれば、
     そのおおもととなる存在=超越者 を思い描くこともあるだろう。
     山や、水や、雷などに人を超えた存在を見るというのは、わかりやすい。
     唯一の存在については、なぜなのか、わからないでいたが、自分なりに納得できた。
     存在することの心細さは、自分を見ていてくれる存在を希求するか。 見守る者として。
     見守る者は、守護する者であると同時に、
     「お天道様に申し訳ない」という、畑仕事に勤しむ素朴な老女の言葉を思えば
     (わたしは、この感覚が好きだなあ。 と思っていた。)、
     見守られるものを、律する者でもある。 ほのぼのした思いに影がよぎる。
     以前と違い、好きだなあで終われないのは、フーコーを知ったからだろう。
     くわしいことは、まだ、何もわからない。 でも、権力という言葉がうかぶのだ。

     思いつくままに、方向を定めず、定まらず。
     以前、読んだ話なので、 細部には記憶違いがあるかもしれないが。
     ヒナのいる雉の母鳥は、敵に襲われると、わざと羽を負傷したふりをして、
     敵を誘引しながら巣を離れ、ヒナを守る。 母鳥の深い愛情の為せる業。
     しかし、本当は、母鳥にそのような意図がある訳ではなく、
     敵に襲われたショックでそうなってしまうだけで、人が勝手に物語を読んでいたのだ。
     これは、人の話ではないが、類する話はヒトにもあるという。
     生存に有利であるから、自然淘汰の結果、現在に至っている。
     表面(表現)は道徳的に見えながら、実は、生存における優位が真の理由である。
     このことは、まだ学生だったわたしには、衝撃だった。
     人は、みな、生まれながらに、美や善についての共通の感覚をもっている。
     なぜ?
     生存における優位性=道徳的振る舞い であるならば、それは、祝福なのか。    
     『ライフゲーム(主役がヒトなのか遺伝子なのかは別として)』という考え方と、
     哲学は無縁でありうるのか。

      『ヨーロッパ思想入門』の第2部は、とても美しい。 そうあれかし。
     だからこそ、「ならば、なぜ?」 と思ってしまうのだ。
     描かれている姿は違うが、『死海のほとり』、『ガリラヤの春』などの一連の著作を
     思い出した。 咳をする子の、引きずられる男の、傍らにいる。 
     



   
    
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