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2009-06-13 [現代思想・入門]

4 ニーチェ、フーコー、ドゥルーズへの系譜
フーコー
 近代社会における「理性」の歴史 (『言葉と物』 『狂気の歴史』)
 社会や歴史のあり方は、常に権力的な意図をもった知的観点によって、配列され、切り取られ、
 秩序をもたされたものにほかならない。
 〈歴史〉とは、権力=理性によって構成されたフィクションにすぎない。

 歴史観   ニーチェから受け継ぐ
  客観的な歴史というものは存在しない。
  歴史とは、現在から振り返って見られた過去のことであり、ひとつの観点を必要とする。
  歴史は本質的に、すでにひとつの「解釈」にすぎない。

 「事実などは存在しない、ただ解釈が存在するだけだ」
 「定義することのできるのは、歴史をもたないものだけである」 (『道徳の系譜』)

ドゥルーズ   (0330-0401 再掲)
 ドゥルーズは彼自身のニーチェ解釈を通して(『ニーチェの哲学』)、さらに形而上学批判を押し進め
ようとする。p307 
 ①近代の形而上学をその問題において問わず、むしろその「起源」を問うという方法
  「系譜学」からわかること
    認識論の問題の裏には、「道徳的」なモチーフが隠されていた(『道徳の系譜』)。
    形而上学の問題のほんとうの動因は、認識の問題ではなく、「禁欲主義的理想」である。
  ニヒリズム  
    世界の存在の意味や理由を司っていた神の死。
    近代形而上学(合理的な理性の働きを土台とした)は、神に託されていた問題を肩代わり。
    「なぜ世界が存在するか」「なぜ人間は生きているのか」という問題を
    世界の客観的認識、普遍的認識が可能であるというかたちで表現せざるをえなかった。
    だが、こういった近代形而上学のモチーフは、根本的にニヒリズムである。
  「認識と生との対立」
    ニヒリズムという言葉が意味しているのは、世界の全体、
    あるいは世界の意味が何であるのかについての、完全な答えを欲してしまう心の動き。
    この心の動きは、「生きること」そのものがもっている無秩序性に直面しえないで、
    常に世界を整理されたものとして見ようとする一種の弱さからきている。

   認識と生との対立、二つの世界の区別は、その真の性格をあらわにする。それは道徳的起源
  をもつ区別であり、道徳的起源をもつ対立である。 (『ニーチェと哲学』)

   近代的な知の欲望は、弱さ=ニヒリズム=道徳という真の起源をもっている。(ドゥルーズ)

 ②認識や真理を問わないで、意味や価値の源泉はなにか、と問い直す。
  「意志への哲学」
    ニーチェの「力(への)意志」(ドゥルーズによる表記)という概念を援用しながら、
    意味や価値が生み出される源泉を問う。
  「力(への)意志」
    なにかを知るということは、たんに客観的な認識と対象の関係があるのではなく、
    すでにものごとに対する意味づけや価値判断の契機が働いている。
    この意味づけや価値判断のみなもとになるのが、人間の「力(への)意志」。
    たんに力の大きさではなく、「力の質」が重要な問題。  





 
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