2009-06-15 [現代思想・入門]
【構造主義からポスト構造主義へ】に関する中心人物の問題意識
デリダの脱構築/差延的アプローチ
J・デリダ (1930-2004)
ロゴス中心主義と形而上学
〈現前〉の哲学と声の優位
〈差延〉と〈根源〉
「こうしてわれわれは―フッサールの明白な意図に反して―〔表象〕そのものを(略)反復の可能
性に依存させ、そして最も端的な〔表象〕つまり現前を、再現前の可能性に依存させるにいたる。
われわれは〈現在の現前〉を反復から派生させるのであってその逆ではない」 (『声と現象』)
「超越論的な〈意味されるもの〉の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際
限化であって、つまり存在論=神学と形而上学との動揺である」 (『グラマトロジーについて』)
1-1-1 より
「形而上学の歴史は絶対的な〈自分が話すのを聞きたい〉である。 この無限な絶対者が自分
自身にたいして自分自身の死としてあらわれるとき、この歴史は終結したのである。 差延なき
声、書字なき声は絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる」 (『声と現象』)
「ロゴス中心主義とは、表音的文字言語(たとえばアルファベット)の形而上学である。 それは
根本的には―謎に満ちてはいるが本質的な、またたんなる歴史的相対主義には接近不可能な、
諸々の理由のために―このうえなく独自的かつ強力な民族中心主義であって、今日では地上
全体に自己を押しつけつつあるのだ」 (『根源の彼方に』)
1-1-2 より
「理性に頼らずには理性に反対することができず、理性のなかでしか理性に抗議することができ
ない。 理性に固有の領野にあっては、われわれに残されているのはただ、戦略素と戦略に依拠
することだけである」 (『エクリチュールと差異』)
5-2-2 より
「真理は必要です。 ……真理は欠けている。 だから真理は必要なのです。 ……もし私が
単に真理に反するような言説だけを口にすれば、その言説はただちに蒙昧主義的な諸効果、
反学問的な諸効果を生じさせてしまうでしょう」 (『他者の言葉』)
【構造主義からポスト構造主義へ】に関する主要人物の解説とキーワード
差異・差延
ロゴスその他が同一性をささえるのではなく同一性がロゴスその他の観念を生み出している。
では、同一性、私が私であるとする根拠は、どこから発生するのか。
そのようなものはない。
意味が充足された私は、「いまここ」の私ではもはやない。 「いまここ」はたえず、その意味の
充足を引き延ばされていく。
差異は意味の充足した世界に表われるが、世界は意味の充足(同一性の根拠)を決して表わ
さない。 ここには差延しかない。
脱=構築
世界はすでに解釈されたテクストとして現前する。 テクストの連鎖は過去から未来へ続く連続
体を構成するだけで、始源も終着もない。
テクストの連鎖を自由に横断し、戯れること。 世界の始源や終着の幻想を構築するのではなく、
そのずれのなかに世界の生成の瞬間を見いだそうとすること。
脱構築は不断の戯れの実践を要求する。
音声中心主義・現前・再現前
ロゴス中心主義
ユダヤ・キリスト教では、ロゴスとは神の言葉(音声)
音声ロゴス中心主義は現前性(いまここ)を特権化する。
しかし、現前もすでに再現前である。
ディフェランス (仏語では差異も差延も発音は同じ)
この世の表われは、時間的継起性、延期化作用のなかにその要因がある。
世界は無数のエクリチュールのからみ合いとして存在する。
いまここは、そのなかの痕跡にすぎず、絶えずくり延ばされて表われる何かにすぎない。
この不断のくり延べ化を差延という。
差延 差異があらわになることではなく、はじめから差異しかないことを示す。
グラマトロジー
エクリチュール(書かれたもの)の学
ソシュールの言語学を基本原理とした記号学を否定
ラングにしろパロールにしろ、意味の現前を肯定しているため。
記号過程において、意味は決して充足することはなく、たえず引き延ばされる
―差延化されるだけである。
アルシ=エクリチュール・代補・戯れ・痕跡
何かの代わりになる何かであり、同時に何かを指し示す何か、という役割を演じるもの。
いっさいの記号作用過程は諸差異の形式的戯れである。
話されたものも書かれたものも、記号過程は記号の他の記号への関連づけにすぎない。
はじめの記号も、他の記号によって関連づけられたものにすぎず、
これを痕跡あるいは原(アルシ)=エクリチュールという。
言語思考が絶えず欲望する意味中心化への欲望を演じつつ、その意味をズラし続ける作業
―差延化の表明、脱構築という作業に使用する概念なき概念であり、
意味中心化を否定するのではなく、茶化す作業のための有効な武器となる。
形而上学
形而上学への欲望が権力を生み、人の自由な思考を疎外する。
感想: デリダは形而上学を批判した。
言葉は現実を言いあてられないとした。
それで、それから? が本書ではわからない。
いつものように、いろいろ検索してみた。
いつにもまして、わからない。
批判すること、そのことが目的だったのかと思い始めている。
はじめから差異しかなく、脱=構築(解体)し続けること。
そこから生まれるものは何か。
誰かのエクリチュールを脱=構築する。
そのとき、自分が使う言葉に、どんな態度で臨むのだろう。
言葉は、決して、自分と一致しないのに(デリダの言う「真理」って何だろう?)。
そして、自分のエクリチュールもまた、脱=構築の対象なのか。
エクリチュールは、際限無く、脱=構築され続けるのか。
そこに、意味は存在するのか。
著書を読めば、わかるのだろうか?
↑ なか見!検索してみた。 とても困難に思えた。
↓ 参考図書
デリダの脱構築/差延的アプローチ
J・デリダ (1930-2004)
ロゴス中心主義と形而上学
〈現前〉の哲学と声の優位
〈差延〉と〈根源〉
「こうしてわれわれは―フッサールの明白な意図に反して―〔表象〕そのものを(略)反復の可能
性に依存させ、そして最も端的な〔表象〕つまり現前を、再現前の可能性に依存させるにいたる。
われわれは〈現在の現前〉を反復から派生させるのであってその逆ではない」 (『声と現象』)
「超越論的な〈意味されるもの〉の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際
限化であって、つまり存在論=神学と形而上学との動揺である」 (『グラマトロジーについて』)
1-1-1 より
「形而上学の歴史は絶対的な〈自分が話すのを聞きたい〉である。 この無限な絶対者が自分
自身にたいして自分自身の死としてあらわれるとき、この歴史は終結したのである。 差延なき
声、書字なき声は絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる」 (『声と現象』)
「ロゴス中心主義とは、表音的文字言語(たとえばアルファベット)の形而上学である。 それは
根本的には―謎に満ちてはいるが本質的な、またたんなる歴史的相対主義には接近不可能な、
諸々の理由のために―このうえなく独自的かつ強力な民族中心主義であって、今日では地上
全体に自己を押しつけつつあるのだ」 (『根源の彼方に』)
1-1-2 より
「理性に頼らずには理性に反対することができず、理性のなかでしか理性に抗議することができ
ない。 理性に固有の領野にあっては、われわれに残されているのはただ、戦略素と戦略に依拠
することだけである」 (『エクリチュールと差異』)
5-2-2 より
「真理は必要です。 ……真理は欠けている。 だから真理は必要なのです。 ……もし私が
単に真理に反するような言説だけを口にすれば、その言説はただちに蒙昧主義的な諸効果、
反学問的な諸効果を生じさせてしまうでしょう」 (『他者の言葉』)
【構造主義からポスト構造主義へ】に関する主要人物の解説とキーワード
差異・差延
ロゴスその他が同一性をささえるのではなく同一性がロゴスその他の観念を生み出している。
では、同一性、私が私であるとする根拠は、どこから発生するのか。
そのようなものはない。
意味が充足された私は、「いまここ」の私ではもはやない。 「いまここ」はたえず、その意味の
充足を引き延ばされていく。
差異は意味の充足した世界に表われるが、世界は意味の充足(同一性の根拠)を決して表わ
さない。 ここには差延しかない。
脱=構築
世界はすでに解釈されたテクストとして現前する。 テクストの連鎖は過去から未来へ続く連続
体を構成するだけで、始源も終着もない。
テクストの連鎖を自由に横断し、戯れること。 世界の始源や終着の幻想を構築するのではなく、
そのずれのなかに世界の生成の瞬間を見いだそうとすること。
脱構築は不断の戯れの実践を要求する。
音声中心主義・現前・再現前
ロゴス中心主義
ユダヤ・キリスト教では、ロゴスとは神の言葉(音声)
音声ロゴス中心主義は現前性(いまここ)を特権化する。
しかし、現前もすでに再現前である。
ディフェランス (仏語では差異も差延も発音は同じ)
この世の表われは、時間的継起性、延期化作用のなかにその要因がある。
世界は無数のエクリチュールのからみ合いとして存在する。
いまここは、そのなかの痕跡にすぎず、絶えずくり延ばされて表われる何かにすぎない。
この不断のくり延べ化を差延という。
差延 差異があらわになることではなく、はじめから差異しかないことを示す。
グラマトロジー
エクリチュール(書かれたもの)の学
ソシュールの言語学を基本原理とした記号学を否定
ラングにしろパロールにしろ、意味の現前を肯定しているため。
記号過程において、意味は決して充足することはなく、たえず引き延ばされる
―差延化されるだけである。
アルシ=エクリチュール・代補・戯れ・痕跡
何かの代わりになる何かであり、同時に何かを指し示す何か、という役割を演じるもの。
いっさいの記号作用過程は諸差異の形式的戯れである。
話されたものも書かれたものも、記号過程は記号の他の記号への関連づけにすぎない。
はじめの記号も、他の記号によって関連づけられたものにすぎず、
これを痕跡あるいは原(アルシ)=エクリチュールという。
言語思考が絶えず欲望する意味中心化への欲望を演じつつ、その意味をズラし続ける作業
―差延化の表明、脱構築という作業に使用する概念なき概念であり、
意味中心化を否定するのではなく、茶化す作業のための有効な武器となる。
形而上学
形而上学への欲望が権力を生み、人の自由な思考を疎外する。
感想: デリダは形而上学を批判した。
言葉は現実を言いあてられないとした。
それで、それから? が本書ではわからない。
いつものように、いろいろ検索してみた。
いつにもまして、わからない。
批判すること、そのことが目的だったのかと思い始めている。
はじめから差異しかなく、脱=構築(解体)し続けること。
そこから生まれるものは何か。
誰かのエクリチュールを脱=構築する。
そのとき、自分が使う言葉に、どんな態度で臨むのだろう。
言葉は、決して、自分と一致しないのに(デリダの言う「真理」って何だろう?)。
そして、自分のエクリチュールもまた、脱=構築の対象なのか。
エクリチュールは、際限無く、脱=構築され続けるのか。
そこに、意味は存在するのか。
著書を読めば、わかるのだろうか?
マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル
- 作者: ジャック・デリダ
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2007/09/25
- メディア: 単行本
↑ なか見!検索してみた。 とても困難に思えた。
↓ 参考図書
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