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2009-04-14 [現代思想・入門]

2 デカルト、カント、ヘーゲルの近代哲学の二元論

  イギリス経験論哲学   ロック、ヒューム
  演繹と帰納:ヒュームは、因果関係の認識の可能性そのものに疑念をいだいた。
          帰納や演繹という推論の原理は、習慣によって成立しているにすぎない。

  還元:ヒュームは、人間の認識を知覚だけに還元しようとした。
      人間の自我は知覚の束にすぎない。

  観念:経験論の伝統では、人間の心は白紙のようなものだとして、生得観念を否定
      人間の観念はすべて経験によって発生する

      観念論の伝統では、外界の事物は人間の観念によって形づくられたものにすぎない

      観念の起源が外界にあるか、外界の起源が観念にあるか の違い
      どちらも、事物の像と人間の思惟が直接対応するという考え方

  現象:人間の知覚するものは現象にすぎない。 現象を考察。
      ロックは、物質に固有の第一性質、
      人間が知覚するだけで物質に本来備わっていない第二性質 を区別した。

  表象:「知覚の束」じたい、主体が表象するものの集合
      自我は表象の舞台


 デカルト
  存在:われ思う、ゆえにわれあり。
      わたしは考えている。
      この考えているわたしの存在だけはうたがうことができない。
      これをうたがうとしても、うたがうという行為そのものが存在の自明性をさししめす

  表象:真理の最終根拠は「われ思う、ゆえにわれあり」という「コギト」にあった。
      このコギトは自己についての表象 



                             参考:『思考の用語辞典』   中山 元 著



 感想: 自明:説明や証明をしなくても、明らかなこと。
    「思惟するわたし」は、わたしが認識する「わたしについての表象」。
    人間の思惟も観念であり、観念は主体には表象としてうけとめられるとしていながら、
    デカルトはなぜ、「思惟するわたし」の存在の自明性を疑わなかったのだろう。
    「認識するわたし」は、わたしが認識する「わたしについての表象」。
    「認識するわたしを認識するわたし」は、わたしが認識する……

    わたしが夢で胡蝶となったのか、胡蝶が夢でわたしになったのか。    「胡蝶の夢」

    デカルトは、「思惟するわたし」がデカルトであることを疑わなかったのか。
    世界は、「思惟するわたし」と神 だったのか。





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