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2009-06-13 [現代思想・入門]

4 ニーチェ、フーコー、ドゥルーズへの系譜
フーコー
 近代社会における「理性」の歴史 (『言葉と物』 『狂気の歴史』)
 社会や歴史のあり方は、常に権力的な意図をもった知的観点によって、配列され、切り取られ、
 秩序をもたされたものにほかならない。
 〈歴史〉とは、権力=理性によって構成されたフィクションにすぎない。

 歴史観   ニーチェから受け継ぐ
  客観的な歴史というものは存在しない。
  歴史とは、現在から振り返って見られた過去のことであり、ひとつの観点を必要とする。
  歴史は本質的に、すでにひとつの「解釈」にすぎない。

 「事実などは存在しない、ただ解釈が存在するだけだ」
 「定義することのできるのは、歴史をもたないものだけである」 (『道徳の系譜』)

ドゥルーズ   (0330-0401 再掲)
 ドゥルーズは彼自身のニーチェ解釈を通して(『ニーチェの哲学』)、さらに形而上学批判を押し進め
ようとする。p307 
 ①近代の形而上学をその問題において問わず、むしろその「起源」を問うという方法
  「系譜学」からわかること
    認識論の問題の裏には、「道徳的」なモチーフが隠されていた(『道徳の系譜』)。
    形而上学の問題のほんとうの動因は、認識の問題ではなく、「禁欲主義的理想」である。
  ニヒリズム  
    世界の存在の意味や理由を司っていた神の死。
    近代形而上学(合理的な理性の働きを土台とした)は、神に託されていた問題を肩代わり。
    「なぜ世界が存在するか」「なぜ人間は生きているのか」という問題を
    世界の客観的認識、普遍的認識が可能であるというかたちで表現せざるをえなかった。
    だが、こういった近代形而上学のモチーフは、根本的にニヒリズムである。
  「認識と生との対立」
    ニヒリズムという言葉が意味しているのは、世界の全体、
    あるいは世界の意味が何であるのかについての、完全な答えを欲してしまう心の動き。
    この心の動きは、「生きること」そのものがもっている無秩序性に直面しえないで、
    常に世界を整理されたものとして見ようとする一種の弱さからきている。

   認識と生との対立、二つの世界の区別は、その真の性格をあらわにする。それは道徳的起源
  をもつ区別であり、道徳的起源をもつ対立である。 (『ニーチェと哲学』)

   近代的な知の欲望は、弱さ=ニヒリズム=道徳という真の起源をもっている。(ドゥルーズ)

 ②認識や真理を問わないで、意味や価値の源泉はなにか、と問い直す。
  「意志への哲学」
    ニーチェの「力(への)意志」(ドゥルーズによる表記)という概念を援用しながら、
    意味や価値が生み出される源泉を問う。
  「力(への)意志」
    なにかを知るということは、たんに客観的な認識と対象の関係があるのではなく、
    すでにものごとに対する意味づけや価値判断の契機が働いている。
    この意味づけや価値判断のみなもとになるのが、人間の「力(への)意志」。
    たんに力の大きさではなく、「力の質」が重要な問題。  





 
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2009-06-12 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『カント』   岩崎武雄 著
     序論 カント哲学の背景と意図
      1 近世哲学の特徴
       (1)人間的立場の発見
       (2)自然科学の確立
       (3)学問的要求と世界観的要求との対立
      2 カント哲学の意図

     近世における自然探究の方向の転換
      本質から法則へ   「何故に」という問いから「いかにして」という問いへ
     自然探究が学問となり得た理由
      実証性の獲得
      数学の使用
     デカルト 大陸合理論 演繹的推理 の欠陥
      大前提の中に含まれている以上のものを結論として取り出してくることはできない。
     イギリス経験論   経験を超越したものについては何等の認識も持ち得ない
      形而上学の否定
      自然科学的認識の確実性をも疑う

     哲学   世界観的要求を持つがゆえに、従来、形而上学でなければならなかった
      世界観は、人がこの世界で生きてゆく以上必要とされる。 また、
      価値評価と結びつくものであり、価値評価を行うためには、
      世界の本質が何であるかというような問題が、解決されなければならない。

     世界観(形而上学的思惟)的要求と学問的(実証的)要求との対立

     カント
      合理主義的地盤に立っていたが、ヒュームによってその「独断の夢をさまされる」。
      懐疑論的帰結に止まるには、世界観的要求が強すぎた。
      「形而上学の全面的な革命を企てる」ことによって、形而上学を
      (学問的認識と矛盾しない)「学問の確実な道にもたら」そうとした。
     カントの批判哲学の意図
      世界観的要求と学問的要求との調和統一


 感想: なぜ形而上学は批判されたのか。 を考えるためには、
     そもそも、形而上学とは何なのか。 をもっと知らなくては。 と、わき道に。
     わかったのは、自分の根本的な動機が世界観的要求だということ。
     「3 デリダと脱構築という概念」を読むには、あまり関係なかったかな、ということ。
     思い返してみれば、わからなくて当惑したのは、
     デリダが批判した。 それで? ということだった。
     外堀から・・・と思ったが、形而上学は、埋められるようなものではなかった。
     本文中にある、
     「デリダは、ヨーロッパのこういった理性信仰を、端的に〈形而上学〉とよぶ」を
     デリダの批判対象としての形而上学の定義として、先に進もうと思う。

     『カント』の「結び カント哲学の現代的意義」も興味深い。
     現代とは初版時1958年。 サルトルの『弁証法的理性批判』が1960年。
     実存主義が大きな思想の潮流とある。 対するのは、分析哲学。
     2009年のいま、世界観的要求と学問的要求との関係がどうなっているのか
     ということも、おもしろそうだ。
     わかったといえば、高校の物理でつまづいた理由。
     「何故に」と問うて、当然わからず、先に進めなかった。
     「いかにして」と問い方を転換して、解法を覚えるべきだったのだ。



カント

カント

  • 作者: 岩崎 武雄
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 1996/10
  • メディア: 単行本






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2009-06-11 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      5章 実存の哲学
  実存の哲学   自分自身の存在を問題にする哲学
  ソクラテス   哲学を自然界の探究から自己自身の探究へと180度転回させた。
   「いかに生きるべきかを考えることが、理性をもつ者にとってもっとも大切な仕事である」
   いわば、理論理性に対する実践理性の優位
  パスカル

  キルケゴール
   「私は何を知るべきか、ではなく、私は何をなすべきか、このことについてはっきりした考えを
   もつこと、・・・。 いわゆる客観的真理の発見、哲学の全体系の考究と概観、・・・。
   ・・・自分がその中に住まない殿堂を構築すること、こういうことができてなんの益があろうか。
   ・・・私の魂が焦がれるもの、それは私の生を意味づける一つの理念の発見である」 (日記)
   客観的知識と信仰とのあいだには深淵があり、知識の量によって架橋することはできない。
  ヘーゲル哲学
   弁証法の概念の網のうちに全実在をとらえようとしたが、実存が抜け落ちている。
  実存   人間の存在
   人間は自由な個体であり、つねに選択することによって自己を実現する存在者である。
   大衆(=非真理 個人を無責任にする)の中の同質的単位としての一人ではなく、
   かけがえのない絶対的な個人。
   人間であるということは、
   普遍的なもの(国家、教会、民族、絶対精神、ほか)の中に解消されないということ、
   普遍的なもの以上であるということ。
   実存の意味   「単独者として全責任を背負って神の前に立つ」
  サルトル、ほか、現代の実存哲学
   「神の前に」が落ちて、「全責任を背負う単独者」という概念のみ受け継がれた。

  不安
   未知なるものの誘惑にひかれていると同時に、現在の安全の喪失におびやかされていること
   自由であるがゆえに、自己を選択しなければならない人間の永遠の宿命
   断崖の上から深淵をのぞきこんでいるような者
    めまいを覚え、引きずりこまれる誘惑とそれへの反発とを同時に意識する。

  不条理への跳躍   理論的移行ではなく、決断による跳躍
   「不確実なものに向かっての情熱的な跳躍」 「主観性が真理である」


  レヴィナス
   自我を基礎とした(自由、自己実現、理性)倫理をより高い次元で支える倫理の探究
  全体と無限
   全体についての経験   「しかじかのもの以上のなにものでもない」
    すべての物は、「それっきりの自己同一性」のうちにある。
   理性としての私が認識するとき、あらゆるものを普遍概念によって整理統合し、
   意味関連の網の目の中へ秩序づけ、私はすべての存在者を自我のうちに取りこむ。
   この取りこみにより、私は認識されたものを道具化する。
   理性とは同化の力であり、全体化の力であり、それによって自己を貫徹する力である。
   「無限」の経験   他者との直面
    他者を吟味し、判断して、私の使いなれたカテゴリーのうちに収納しようとするとき、
    他者はそれらのカテゴリーの背後にふたたび現れる。
    他者は現象として現れざるをえないが、現れると同時にすでに現象から立ち去っている。
   「無限」   「有限な現象をあふれ出ている」、理性は対処できない
    「超越」   他者が私より高みにいる  
    「不在」   他者はいつもすでに立ち去っている
    「絶対」   他者は私から切り離されている

  報いを期待しない善意の奉献 責任 「プシシスム」に促された善なる行為の栄光


 感想: 社会の哲学には、ロールズも取り上げられている。
     正議論
      正義   「人間は自由で平等であるべきだ」という要請あるいは命法あるいは掟
       直覚的な倫理的規範である「重なりあう同意」、理論的根拠づけの放棄
       根拠づけが普遍性を要求するならば、人々はそこで分裂してしまう。
      二つの原理
       自由の原理
       配分の原理
        人々の自由な活動は、社会的弱者の利益になるという条件の下においてのみ、
        その存立を許容される。
        能力は個人のものではなく社会の共有財産である。
        能力は偶然に与えられたものだから、能力を私する理由はない。

     基本的人権の普遍的な根拠づけは、
     超越者の存在を要請しないかぎり、
     理論的には不可能なのだろうか?





  
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2009-06-10 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      4章 社会の哲学
  ヘーゲル   (社会思想の観点のみ)
   歴史哲学   キリスト教の終末論の世俗化
  キリスト教の終末論
   レーヴィト 『世界歴史と救済史』
    すべての歴史哲学はキリスト教の終末論信仰の世俗化である。   
   世界歴史には初めがあり、終わりがあるという信仰
   終末論の世俗化   地上に全歴史の最終状態を招来しようとする思想
  世界歴史   精神の自己実現=自由の自己実現 のプロセス
   世界精神の目的は、自己実現としての理性化の完遂である。
   第一段階   東洋的段階 一人の専制君主のみが自由
    精神が自然性のうちに埋没し、いまだ自由であることを自覚していない。
   第二段階   ギリシア人の段階
    彼らは自由の意識に目覚めたが、少数の者であり、すべてまではいたらなかった。
   第三段階   キリスト教とともに到来する
    人間は人間として自由であることが、はじめて自覚される。 しかし、
    「神の前において」という宗教的意識においてのみであり、世俗的現実においてではない。
    精神の自己実現は現実の社会の中で成就されなければならないが、
    最終形態がゲルマン民族において成立した立憲君主制である。

  マルクス
   ヘーゲルの歴史の終末論的構造を唯物史観へ
   物質的生産力のある一定の発展段階に対応して社会の生産関係が成立し、
   人間は否応なしにこの生産関係のうちに巻きこまれて生きざるをえない。
   物質的生産力という下部構造にもとづいて文化という上部構造が成立する。
  世界歴史
   物質的生産力が必然的に発展することにより、生産関係(経済構造)と矛盾するようになり、
   この軋轢が社会改革を必然的にひきおこす。
   原始共同体型 → 古代奴隷制型 → 封建制型 → 近代ブルジョワ資本主義型
   最終段階
    ブルジョワ資本主義社会の内部で発展した生産力はこの社会の構造そのものを破壊し、
    プロレタリア革命による生産手段の共有と計画経済によって、
    階級対立も貧困もない自由な社会が出現する。
  自由なき国家の淵源
   下部構造理論の根本的な誤り
    意識が物質的下部構造によって決定され、歴史が必然的に進展するものならば、
    人間がどのように生きようと、社会主義社会は出現するはずである。
    この決定論思想の矛盾はつとに指摘されていた。
   決定論は人間から倫理性を奪い去る。
  終末論の世俗化
   既存の現実を固定化し制度化し、人間から自由と発展とを奪いとる。

  現代の歴史的状況
   基本的人権―人間の自由と平等―の自覚とその現実化
   グローバリゼイション   ナショナリズムの限界と終焉



    
   
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2009-06-09 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      4章 社会の哲学
  ロック
   デモクラシーの理念を哲学的に理論化
    アメリカの独立宣言、フランス革命の人権宣言の思想的基底
    デモクラシーは、現在、人類が最良と考えている政治形態

   自然状態と自然法
    ホッブス   人間の自然状態を、法も秩序も欠如した状態、戦争状態と見なした。
    ロック   人々が自然法の範囲内で自分の行動を律する、自由で平等な状態と考えた。
    「自然状態はそれを支配すべき自然法をもち・・・。 ・・・自然法とは理性のことであるが・・・
    万人が平等で独立である・・・。 ・・・だれも他人の生命、健康、自由、財産を傷つけては
    ならない・・・。 ・・・人間はすべて・・・創造主の作品であるからである。 ・・・」
                                             (『統治論』自然状態)
    この神は、人間に生命維持のための自己保存本能を与えたが、同時に、・・・
    家族をつくり、家族を根幹にしてさらに大きな社会生活を営むように命じた。 (市民社会)
    (アリストテレスの思想と同じく、人間を社会的動物と考えた。)
    すべての土地とその産物は、人間が生きるために利用しうる共有物として与えられた。

   所有権の成立
    共有物に個人の労働が付加されたとき、所有権が成立した。
    自分の労働により産出し収集したものが自分に利用できるかぎりにおいて、
    すなわち腐ってしまわないかぎりにおいて、所有は許される。 (財産)

   貨幣の発明
    価値は労働から生まれる。
    多量の食料を蓄えても、自分の手中で腐ってしまえば無意味である。 こうして、
    腐ることのない、耐久性と希少性において際だった金や銀を、貨幣として使用しはじめた。
    貨幣は蓄積可能であることから、人々は仕事に精を出し、富の蓄積をはじめる。
    勤勉のていどには差があるので、人々の財産にさまざまな差が生じてきた。
   社会契約説
    他人の所有権などを侵害する者を、いつも各人が自分の責任で処罰していれば、
    私刑の横行する無秩序状態が現出するであろう。
    人々は、自然状態において自然法にもとづいて自由に行動していた権利(自然権)を放棄、
    一つの政治社会を結成し、不正行為者の処罰を共同体の構成員である多数者の意志に
    ゆだねた。
    人間が政治社会を結成したのは、各人の生命、自由、財産をよりよく守るためだった。

   政治社会の構造
    すべての人が自然法の執行権を放棄してこれを公共の手にゆだねるとき、市民社会もしくは
    政治社会が成立する。
    国家の主権は全成員(民衆)の手にある。
    絶対王制は市民社会に矛盾する。 (市民社会)
    政治社会においてもっとも重要な機関は立法府である。
    立法府がもちうる権力は、社会の公共の善のためであり、それ以外の目的をもちえない。
    公共善の根底には神の意志である自然法がある。 (立法権)
    国家社会の主権は国民にあるのだから、とうぜん、国民には抵抗権、革命権が存在する。
                                                 (統治の解体)


 感想: ロックの社会思想は、創造主ゆえの自由であり、平等である。
     学校で、ロックの思想は習った。
     「創造主ゆえ」という部分も習ったはず。 さらっと。
     さらっとだから、やがて記憶から消えて、ただ、結論だけが残るのだ。
     なぜかを知らない、ということも、知らないまま。
     なぜ?と尋ねることが、常識の欠損であるとはかぎらない。
     もし、真摯に訊かれたら、どう、答えられるだろう。
     ・・・ ・・・ ・・・
     ・・・理性の事実?

     


 
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2009-06-08 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      3章 経験主義の系譜
  ヒューム
   因果律の批判的考察
    認識
     理性的認識あるいは先天的認識
      絶対確実であると同時に具体的内容ゼロの認識である。
      「直角三角形は三角形である」   すべての論理的認識はこういう性格のもの
       「直角三角形」という観念の中にすでに「三角形」という観念が含まれている。
     事実についての経験的認識   人の認識の大部分
    事実に関する認識
     感覚による直接的認識
     推理による間接的認識
      原因と結果の連結関係に関する推理により、目前の事物に限局されず認識できる。
    原因と結果の連結関係(因果関係)
     一つの感覚的印象と他の感覚的印象とのあいだには、
     論理的認識の場合に確かめられうるような必然的関係がない。 (『人生論』)
     もし「AならばB」が必然的関係ならば、「Aならば非B」は思惟不可能である。 が、
     「明日、太陽は東から昇る」も「明日、太陽は西から昇る」もともに思惟可能である。
     因果関係はすべて、あるできごとが恒常的に他のできごとを伴って現れてきた、
     という過去の経験にもとづいて立てられた推測なのである。
    因果関係を立てることに理論的根拠はない   必然性の欠如と、
     自然の一様性という前提
      いままで「AならばB」であった。 だから、これからも「AならばB」だろうという前提。
      「過去・現在・未来、不変の因果関係が妥当する」という前提にもとづいて成立する。
    因果関係は自然の一様性を前提とし、
    自然の一様性は因果関係を前提する、という悪循環がある。 (『人間知性に関する探究』)
    想像力によって、習慣的に経験されたAなる印象と
    Bなる印象との連続的継起もしくは恒常的連接を、因果関係として法則化している。

   外界の事物の存在
    事物の存在とその自己同一性もまた、先の印象と後の印象とのあいだの類似性と、その
    経験の恒常性によって、私たちが想像しているだけのものであることがわかる。 (『人生論』)

   人格の同一性
    私には自己というものがあるのだろうか。
    自己をもとめて自分の内奥を深く見つめ、愛憎や快苦などの印象を見出す。
    その背後を見つめても、愛憎や、快苦やさまざまな記憶以外のものは見つからない。
    実体の観念を消去し、自己とは印象の束であると考えた。
    人格の同一性を支えるものは、記憶における印象の連続性以外には何もない。

   カントはヒュームの因果律批判に触発され、
   存在者に普遍的に妥当する秩序は経験からは生じえない、と考えた。
   「カテゴリーとは、知性の与える存在者のアプリオリな存在様式である」
   カントのコペルニクス的転回
    これまで存在者そのものの構造と考えられてきたカテゴリーを認識主観の構造へと逆転し、
    認識主観が存在者にその秩序を与える、と考えた。

   人格の同一性の批判は、自我をどこまでも客体として見ている思想の弱点を露呈している。
   自我の問題は、後の実存哲学によって、真相を探究される。

     

   

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2009-06-07 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      2章 理性主義の系譜
  デカルト
   方法的懐疑
    誇張的懐疑   数学的真理への懐疑 悪意ある霊の仮定
     オッカムの思想の影響   理性的真理もまた神の自由な意志決定に依存する
   「われ考う。 ゆえに、われ在り」
   私とは何か   近代理性主義の出発点
    身体が存在しないことは想像できるが、精神でない私は成立不可能である。
    二元論   精神と身体との実在的区別
   神の存在
    神の存在論的証明   「完全な存在者」という観念はその中に「存在」の観念を含んでいる。
    カントによる証明の否定   「観念の100ターレルと実在の100ターレル」
  確実な知識
   「精神としての自我の存在」と「神の存在」という、デカルトの哲学体系の二つの真理は、
   感覚によっては把握できない。 だから、
   「感覚のうちになかったものは、知性のうちにはない」
   というアリストテレス・トマス流の認識論は誤りということになる。
   感覚ではなく、理性によって、精神の存在も神の存在も明晰判明に知られるのである。
   理性によって明晰判明に認識するものが、幻影ではなく実体であることを保証するものは、
   ただ神の誠実しかない。 神の完全性のうちに含まれている神の誠実を本質的に要請。

  カント   理性主義と経験主義が合流し、近代ヨーロッパ哲学の原型が成立
   理論理性による形而上学の否定であると同時に、実践理性による形而上学の再建
   「信仰に場所を明けるために、知識を捨てなければならなかった」
                                       (『純粋理性批判』第二版序文)
   




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2009-06-06 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      1章 中世のキリスト教哲学
  中世末期の思想 14世紀~15世紀
   信仰と理性の調和、社会の普遍的統一が崩壊し、分裂と変革の時代へ
   都市での市民階級の活動 神学と哲学の分離

   ドゥンス・スコトゥス   個別化の原理 「コノモノ性」

   オッカム   唯名論
    あらゆる認識は具体的な個物の直接の感覚的経験から論理的にみちびき出されるもの。
    概念や名辞は多くの事物をあらわす記号であり、その意味で普遍であるが、
    その記号に対応する事物に共通に内在する普遍的な形相が存在するわけではない。
    存在するのは個物だけであり、その個物を感覚的経験を介して知性が直接に把握する。
   普遍論争   12世紀 アベラールによる解決
    実在するのは個物だが、普遍とは個物から人間知性によって抽出された事物の本性
    (形相)をあらわし、その内容は神の精神のうちに存在している。
   「オッカムの剃刀」   余計な説明原理を立てない
    個物がたがいに似ているというだけで十分であり、本性は必要ない。
   「神は全能である」   イデアのような媒介なしに直接に意志し、創造する
    形而上学の破壊と経験主義への強い傾向
    すべての経験的関係や世界秩序は偶然的であり、
    アプリオリに(論理的に)演繹もできなければ基礎づけることもできない。
    世界を相互に必然的関係のない諸存在に分割したといえる。

   ルター   16世紀
    予定説に苦しめられた
     神の全知全能からの必然的帰結   救われる人はあらかじめ決定されている
     教会の禁令にもかかわらず、オッカムの思想が大きな影響力をふるった。
    宗教改革    


 補足: 形而上学
     実体
      第一実体(基体)
       質料
       形相
      第二実体(種・類)

    


    
  
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2009-06-05 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      1章 中世のキリスト教哲学
  トマス・アクィナス
   存在の類比
   アリストテレス   「類比による一」
    存在にはいろいろな意味があり、それらのあいだにはていどの相違がある。
    実体と内属性とで、現実態と可能態とで、それぞれ、後者の存在のていどは希薄である。
    しかし、同じ「存在」という言葉を使っている以上、
    そこにはすべてに通じる統一的な意味がなければならない。 この一性。
   トマス   類比の中心的意味を「純粋現実態である存在そのものとしての神」におく
    実体も内属性も含めてすべての被造物は、
    この中心的意味を分有するていどに応じて「存在」である。 

   自然神学の道
   トマス   認識においてもアリストテレスにしたがう
    すべての認識は、外界についての感覚的経験からはじまる。
    認識とは、感覚を通してあらわれる事物の本質(可知的形相)を理性が把握すること。
    神についての認識も、自然的世界の存在者についての認識から始まらねばならない。
    あらゆる自然的存在者は、なんらかのていどで純粋現実態である存在そのものを現して
    いることにより、神認識の出発点になることができる。
   カントによる批判 (『純粋理性批判』)
    現象世界にのみ妥当する因果律を超越的世界にまで適用しているがゆえに誤謬である。
   「世界が神を現している」 目的論的な言い換え
    有限な存在者が存在の持続と善の実現をもとめて活動するとき、
    この活動は、自己自身を超え出て、存在の充溢であり善の根源である神をもとめ、
    それへ向かっているのである。


 感想: 「類比による一」という言葉を検索していたら、
     『ギリシャ哲学セミナー論集』に出会った。
     アリストテレスに入門するのはやめようと思った。 というのはおいといて。
     VolumeⅡ(2005)に、この本の著者による応答というのがある。

     以下、とりとめのないことを、とりとめのないままに。
     「加害行為は醜い」という感覚、カントの「理性の事実」、あるいは類する私的経験は、
     人は、みな、生まれながらに、美や善についての共通の感覚をもっている。
     ということを、素朴に想起させるのではないか。
     みなもっている=分有されている と考えれば、
     そのおおもととなる存在=超越者 を思い描くこともあるだろう。
     山や、水や、雷などに人を超えた存在を見るというのは、わかりやすい。
     唯一の存在については、なぜなのか、わからないでいたが、自分なりに納得できた。
     存在することの心細さは、自分を見ていてくれる存在を希求するか。 見守る者として。
     見守る者は、守護する者であると同時に、
     「お天道様に申し訳ない」という、畑仕事に勤しむ素朴な老女の言葉を思えば
     (わたしは、この感覚が好きだなあ。 と思っていた。)、
     見守られるものを、律する者でもある。 ほのぼのした思いに影がよぎる。
     以前と違い、好きだなあで終われないのは、フーコーを知ったからだろう。
     くわしいことは、まだ、何もわからない。 でも、権力という言葉がうかぶのだ。

     思いつくままに、方向を定めず、定まらず。
     以前、読んだ話なので、 細部には記憶違いがあるかもしれないが。
     ヒナのいる雉の母鳥は、敵に襲われると、わざと羽を負傷したふりをして、
     敵を誘引しながら巣を離れ、ヒナを守る。 母鳥の深い愛情の為せる業。
     しかし、本当は、母鳥にそのような意図がある訳ではなく、
     敵に襲われたショックでそうなってしまうだけで、人が勝手に物語を読んでいたのだ。
     これは、人の話ではないが、類する話はヒトにもあるという。
     生存に有利であるから、自然淘汰の結果、現在に至っている。
     表面(表現)は道徳的に見えながら、実は、生存における優位が真の理由である。
     このことは、まだ学生だったわたしには、衝撃だった。
     人は、みな、生まれながらに、美や善についての共通の感覚をもっている。
     なぜ?
     生存における優位性=道徳的振る舞い であるならば、それは、祝福なのか。    
     『ライフゲーム(主役がヒトなのか遺伝子なのかは別として)』という考え方と、
     哲学は無縁でありうるのか。

      『ヨーロッパ思想入門』の第2部は、とても美しい。 そうあれかし。
     だからこそ、「ならば、なぜ?」 と思ってしまうのだ。
     描かれている姿は違うが、『死海のほとり』、『ガリラヤの春』などの一連の著作を
     思い出した。 咳をする子の、引きずられる男の、傍らにいる。 
     



   
    
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2009-06-04 [現代思想・入門]

1 あらゆる形而上学的なるものへの批判! (再)


 参考: 『ヨーロッパ思想入門』
     第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ
      1章 中世のキリスト教哲学
  アウグスティヌス   人間が神の似像である
   「私は存在し、存在していることを知り、その存在と知を愛している」
   自己認識においては、認識する者と認識されるものとが分離していない(本性上合致が成立)
   ので、自分が存在することは絶対的に真なのである。
   「それゆえ、もし私が欺かれるとすれば、私は存在する。
   なぜなら、存在しない者が欺かれることはありえないのだから」
   こうしてアウグスティヌスは、自分が存在することが絶対的に真であることを確立した。
   この思索は、実存的な動機から発していて、デカルトとは異なっている。
   自己が絶対に疑いえない実在であることを確かめようとしているのである。
   デカルトは、「思惟する自己存在の絶対的真理性」を、根本的真理として立てようとした。
   方法的懐疑の思索は、認識論的な動機から発している。

  トマス・アクィナス   アリストテレス哲学を根本的に受容 理性と信仰の稀有なバランス
   「存在する」とはなにか
   アリストテレスは「存在」を四種に分析した (『形而上学』第6巻第2章)
    ①カテゴリーとしての存在   
    ②可能態・現実態としての存在
    ③真としての存在
    ④付帯性としての存在         が、これらを明確には統一的にまとめあげなかった。

   トマスは、アリストテレスの意図を信仰の光の下で明確化。
    「存在する」とは、自ら立つことで、実体である、ということにほかならない。
    カテゴリーとは、述語として語られる「存在」のさまざまな意味を言う。
    それらの中で、実体がもっともすぐれた意味での「存在」であり、
    その他のカテゴリー(性質、量、関係、時間、空間、能動、受動など)は、
    実体に依存して存在する(実体への内属性)にすぎない二次的な存在である。
    たとえば、次の文章で、述語はすべて存在をあらわしている。
    「紀元前399年(時間)にアテナイの法廷(場所)で、ソクラテス(実体)は、無神の者(性質)
    という罪状で、死刑の判決を受けた(受動性)」
    ソクラテス以外の述語はすべてソクラテスという実体に支えられ、収斂して成立している。    
    存在には、
    現実態(活動している)、可能態(現実化しうるが、しないかもしれない)という意味もあった。
    「現実態にある実体」=「現に活動している実体」が「存在する」。
    あらゆる有限な存在者は、いずれはかならず滅亡する。→ 滅亡可能な(可能態の)存在者

    アリストテレスの神の存在証明(『形而上学』第12巻)の骨子
     「存在することも、存在しないこともできる、可能的な存在者」は、「己のうちにいささかの
     可能性をも含まず、活動そのものであるがゆえに、必然的に存在する純粋現実態」 が
     なければ、本来存在として現れ出ることができない。
    トマスの「純粋現実態である存在そのものとしての神」という概念
     「存在そのものはすべてのものに対して現実態の位置にある。
     ものが現実性を有するのは、そのものが存在するかぎりにおいてのことであり、したがって、
     存在そのものはすべてのものにとってその現実性の根源であるからだ」
                                       (『神学大全』第1部第4問第1項)

   存在の類比



    
   
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